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仙台に所縁のある文学者を辿って~土井晩翠と晩翠草堂~
2019/05/27
皆さんこんにちは。
4月で平成も終わり、今月から新元号「令和」になりました。
2016年(平成28年)から始まったこのブログも、3年目です。
新元号の始まりと同じく、新たな情報を皆さんに提供していきたいと思いますので今後ともよろしくお願いいたします。
5月に入り、仙台も20℃近くまで気温が上がるようになりましたね。
私は主にプラスチック容器包装を収集していますが、収集中に汗ばむようになってきました。
そろそろ熱中症にも気を付けないといけないですね。皆さんも、外で何か作業する際はご注意ください。
さて、皆さんは「荒城の月」という歌をご存知ですか?
日本を代表する歌曲として広く知られていますね。作詞:土井晩翠 作曲:滝廉太郎
この、作詞を担当した「土井晩翠」は仙台出身です。
今回は、「土井晩翠」と、土井晩翠が晩年を過ごした「晩翠草堂」をご紹介したいと思います。
詩人、英文学者として有名な「土井晩翠」は、明治4年(1871年)に現在の青葉区木町通で質屋を営んでいた土井家の長男として生まれました。
幼少の頃より父親の影響で漢学に親しむ一方、英語学者「斎藤秀三郎」の仙台英語学校に通い、英語を学びました。
23歳の時に帝国大学(現東京大学)英文科に進み、在学中は『帝国文学』編集委員として誌上に次々と作品を発表し、その壮大で神秘的な詩想は当時の青年たちに熱く迎えられ、同時期に活躍していた「島崎藤村」とともに、晩藤時代と称される大きな足跡を残しました。
1898年(明治34年)に東京音楽学校(現在の東京芸術大学)から中学唱歌用の歌詞を委嘱されて「荒城の月」を作詞し、同校がこの詩につける曲を公募して、滝廉太郎の曲が採用され、皆さんが知っている「荒城の月」が生まれました。
土井晩翠は、1900年(明治33年)に第二高等学校(東北大学の前身校の一つ)教授となり帰郷、一時期ヨーロッパに留学していたが、その後の生涯を仙台で過ごし、1952年(昭和27年)に急性肺炎で死去します。
享年80歳でした。
土井晩翠は戦後、詩人としてよりも、校歌の作詞にほぼ専念することになります。
仙台メディアテークのウェブサイトでは、土井晩翠が作詞したこ校歌を聞くことが出来ます。
仙台メディアテークもしかすると、皆さんの通われた学校の校歌も、土井晩翠が作ったかもしれませんね。
土井晩翠は1950年(昭和25年)に詩人として初めて文化勲章を受章し、仙台市の名誉市民第1号にもなりました。(詳しいことについては、Wikipediaなどをご覧ください。)
土井晩翠の住居は元荒町(現在の青葉区一番町1丁目~大町2丁目付近)にありましたが、1945年(昭和20年)の仙台空襲で住居と3万冊の蔵書を失います。
そこで、不憫に思った晩翠の教え子と仙台の有志達が、1949年(昭和24年)旧居跡に新たな住居を建て、土井晩翠は、死去する80歳まで過ごしました。
晩翠没後、邸宅は仙台市に寄贈され、「晩翠草堂」と改称し、現在一般公開されています。
邸宅内には晩翠の著書や写真、生前愛用していたベッドなどが展示されており、学芸員の方が訪れた人たちに、晩翠の生涯などを説明してくれます。
仙台が生んだ文化人「土井晩翠」、その生涯を辿りながら市内を巡ってみるのもいいかもしれませんね。
それではこの辺で
後藤