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出羽国庄内藩紀行1~酒田・本間別邸、お殿様のお休み処~

2022/06/06


山形県のほぼ真ん中にそびえる月山、それを取り巻く山岳地帯は、残雪と地肌と新緑がせめぎ合う雪融けの時期を迎えておりました。

主峰である月山は、依然、真っ白な雪に包まれ、まだ人を寄せつけない様子。

もう少し待てば、やっと夏スキーのシーズン。


険しい渓谷の中を日本海の方向へ進み、ひとたび平地へ下りれば、数々の名峰から注ぐ雪解け水が、どんどん太い河川となって海へ注ぐ酒田へ。


さて、酒井家庄内入部400年を迎える今年。今回は庄内藩にまつわる史跡を巡りたく!

酒田といえば、日本一の大地主、庄内藩を陰で支えた大富豪の本間家。

江戸時代、日本の海路物流を掌握した”北前船”の拠点として「西の堺・東の酒田」と称されるほど栄えた酒田の港。

本間家は、その繁栄の立役者であり「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」という俗謡には驚きです。

しかし歴史を知れば知れるほど、「弱者救済」「地域貢献」の精神のもと、農地改良や海沿いの強風による砂の害を軽減するための防砂林の植林活動など、士農工商の全セクターに貢献した本間家は、地域とともにあったのだと感じ入ります。


本間美術館(公益財団法人 本間美術館)

終戦後のモノ、コト、バが荒廃した民衆の心身の復興のため、日本初の私設美術館として開館しました。


つられて笑顔になるくらい生き生きとした表情の少女がエントランスで迎えてくれました。

北村西望(きたむらせいぼう)氏の「喜ぶ少女」像。(あの長崎県の平和祈念神像を作った方なんですね)

ここでは、本間家が所蔵する美術品(古美術~現代美術まで)や庄内・米沢藩主からの拝領品などを見ることができます。

まぁ、めくるめく歴史上のビックネームの連続で溜め息ばかり。

そして、美術館に隣接しているのが・・・

本間氏別邸の庭園「鶴舞園(かくぶえん)」と「清遠閣(せいえんかく)」

1813年(文化10年)、本間家4代目が築造した庭園「鶴舞園」

その名は、藩主酒井侯が池の中島に鶴が舞い降りた逸話から、名づけたそう。

そして、「清遠閣」は、藩主酒井侯が領内巡視をする際の休憩所として建造されました。

その後も明治新政府の名だたる要人や大正時代には即位前の昭和天皇も宿泊されたとあり、時を超えて、酒田の迎賓館だったのですね。



1階にある広々とした座敷で、館内のスタッフの方に、促されて座った場所。

ここが、お殿様のためのベストビュー(よきかな、よきかな)

庭園の白ツツジが美しく、見ごろを迎えており、季節の草花が盛りの時期を少しづつ重ねて織りなす、飽くことのない眺め。

華美を好まなかったという本間家。

とはいえ、そのさりげなさの中、ただならぬ拘りを随所に見ることができます。


立体的な梅の花枝の欄間。

日差しの加減により、右手の壁に映る影に”ある変化”が起きるそうで、職人の技と遊び心が心憎いばかりの演出になるとか。

そして、天井を湾曲させる造作は、海運業で隆盛を極めた本間家らしく、波を模したデザイン。

しかし、この曲線は、とんでもない手業です!


上の写真は階段側面の壁。これ、”網代編み風”に彫ってあるんですって!!


2階に上がると・・・壁が見どころの一つ。

近くで見ると分かりませんが、少し離れて見ると、細かな金箔の浮雲が出現します。


2階にも広い座敷があり、4つの部屋に仕切れるようになっています。

それぞれに大正モダンなお洒落過ぎる照明器具と異なる欄間のデザインが配されています。

どこまでも細部まで手の込んだ精緻な造り。


2階の窓辺から見下ろすと、鯉が池を優雅に泳ぐ様子や北前船でやってきた”佐渡の赤玉石”や”伊予の青石”などが配置された庭園を一望できます。


今でも手入れが行き届いた庭園ですが、過去、庭園の管理は、冬季に仕事がなくなる港の労働者の収入事業として実施されていたそう。


こちら庭園からの入り口にある石灯籠。

(何かのキャラクターが笑っているように見えてならないのですが)

帰り際に、館内のスタッフの方から教えて頂いたポイントで・・・

石灯籠の”三日月”みたいに空いた穴から覗き込むと、郷土の誇り「鳥海山」が、日本庭園には欠かせない借景(庭園外の山や樹木などの風景を庭の背景として取り入れたもの)となっておりました。


美術館も別邸と庭園も、静かで優雅なひとときを過ごすことができました。


さて、酒田を発つ時間となり、見送ってくれたのは「酒田獅子頭」

200年前から郷土の玩具、そして、魔除けとして伝わるもの。

「耳の立った黒塗りの雄獅子」と「耳の垂れた赤塗りの雌獅子」の雄雌一対になっているのは、全国でも珍しいそうです。

酒田は、1976年(昭和51年)の晩秋、酒田市の中心部をほぼ消失する「酒田大火」に見舞われました。

復興には3年もの月日を要したとあり、復興の象徴として選ばれた「酒田獅子頭」

今もいたるところで、酒田の街を見守っています。

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